読む事、書くこと

書く事は楽しい。
3度の飯より好きかといわれれば、そうでもないが、それでも書く事は好きだ。
最近はもっぱら書くというよりは、タイピングになっている。余談だが、タイピングは書くよりもずっと早い。ほとんど思考の速度でタイピングをすることができれば考えをまとめながらタイピングすることも可能だし、おかしな話、何も考えずに打つ事が出来る。何も考えないというのは、書く為に必要な思考、打つために必要な思考が必要ないという意味だ。

子供のころから書くことにあまり抵抗はなかった。だらだらと続く文章(駄文ともいうが・・)を書き続けることは喜びでこそあれ、苦痛と感じた事は無い。無論、読み手をまったく無視した文章なので、読む方にはたまったものではないが。

思考の速度で打つといっても実際の思考の速度はタイピングよりずっと早い。ここでいう思考の速度は音読に近い。つまり、読書スピードと同じくらいということだ。

1分間に何文字打てるか測った事はないのでどのくらいか知らないしするが、だいたい500字以上打てればそれなりに速い部類に入るらしい。

タイピングや書く速度よりも重要なのが、なにを書くかということで、これが決まらなければ、1文字たりとも打てはしない。

子供の頃に夏休みの課題でよくだされる読書感想文を覚えているだろうか?
あの読書感想文というものがとても苦手だったという人は少なくないだろう。

読書感想文を書くためには、当然だが本を読まないといけない。最近では読まなくても感想文が書ける本というか、タネ本のようなものが売っているが、あれはよろしくない。

文章を書く能力というのは練習を繰り返すことで身に着くもので、それが日記であろうとコメントであろうと繰り返し書くことで初めて自分の力になるものだ。

結果として良い点を取ることだけが目的であれば、誰かの書いた文章をまる写ししてもいいだろうが、それは自分に対して下された評価では無いので将来的になんのメリットもない。

読書感想文の狙いは、読むことにある。一連の文章を読むことで、そのあとに続く「書く」という行為が可能になる。正しくよめたかということよりも、自分なりにどう解釈したかが重要で、それを表現するのが書くということだ。だから、どれだけその本の本質に近付けたかという判断は書かれたものからする以外に無いということになる。

つまり、読むというのは単に活字を目で追うということではなく、本質を読み取るということだ。小学生にいきなり、この本の本質はなんですか?なんて質問をしてもさっぱり分からないだろうから、感想文を書くということを前提に読んでごらんというわけだ。

この訓練は実は非常に重要で、読み取るという能力が高い人はどの分野に進んでも非常に高い能力を発揮することができる。

アウトプットの機会がテストのときにしか用意されていない日本の小中学生にとって、非常に為になる課題だと言える。

僕はこういうブログに書く文章がきれいではない。思ったこと考えたことをそのままの順番でどんどん書くからだ。でも、それでいいと思っている。きちんと構成を考えて書いてもいいのだが、それは書く楽しみが半分になってしまうのでやらない。

論文を書くときにはもちろん構成を考えて書くが、あれは僕にとっては結構な苦痛だ。
散文形式でというか、駄文形式でづらづら書くのが性に合っている。

書きもののプロでもないし、という甘えをどこかに持っているのは確かだが、まあよしとしよう。

とにもかくにも、書くという行為の前提には読むという事がある。

ただ、なんでも読めばいいといものではなく、いいアウトプットをするためには、いいインプットをする必要がある。読書も無しにとめどなく湧き続ける思考なんてものは凡人にはありはしないのでともかくインプットをする。

書くことが苦手な人は、読んでいる本の内容を他人にどう伝えようか?というスタンスで読んでみると良いだろう。

テーマは何で、どこにこの本の本質があって、作者はどうやってそれを読者に伝えようとしているのか。つまらない本であれば、なぜつまらないのか、面白い本であれば、何に惹かれたのか、それを分かりやすく他人に伝えるにはどう読むのか。

それを考えながら夏の課題に取り組むと良いだろう。

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